強か(したたか)に生き抜け リスキリング・リカレント教育で社会変化に耐性を

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世界に、日本に、いまビッグウェーブが押し寄せる。
硬直した社会を打ち壊す、大きな変化の真っただ中をわたしたちは生きる。
感染症流行によって一気に進展したデジタル化、2022年後半からわずか数か月で世界中を席巻する生成系AI技術の高機能化は、社会にさらなる変化をもたらすだろう。
変化を恐れるか、変化をチャンスと捉えるか。
われわれ人類には、変化することを恐れる心理がそなわっている。
一方で、一歩を踏み出せないことが、成長を阻む要因にもなりうる。

どのように変化に応じるべきか、迷う企業、社会人は多い。
荒天後も力強く咲く花々のように、強かに美しく生きるには、どうすればいいか?
確たる自信をもって、大阪大学は、企業と新たな試みに出た。
「変化を迫られたときに新機軸を打ち出せる『高度人材』を育てている」という。
大阪大学で教育を担当する田中敏宏統括理事・副学長に聞いた。

リスキリング・リカレント教育で労働生産性は高まる。 日本に普及しない原因は?

 日本では、これまでも生涯教育やリカレント教育など、人生を通じての継続した学びが提唱されてきた。OECD各国と比べると再教育を教育機関で受ける社会人の割合はOECD平均を下回る1が、内閣府の令和3年度年次経済財政報告では、社会人の大学院進学者数は増加傾向にあり、大学院入学者全体に占める社会人学生の割合も、男女ともに上昇傾向にあることが報告されている。しかしながら、企業や政府による社会人への学びの支援額をみると、ここ数年は横ばいが続いていることも指摘されている。
 企業内教育を含め、仕事に関連した再教育を受けることと、労働生産性には相関があるという報告もある2。生産性を上げたい日本にとって、リスキリングは処方箋となる可能性を秘める。
 日本における学び直しや、企業において社員の能力開発の阻害要因は、どこにあるのだろう?
 厚生労働省が企業を対象に行う能力開発基本調査3によれば、企業側と労働者側双方に、以下のような要因が上位に並ぶ。企業側からは「指導する人材が不足している」「人材育成を行う時間がない」「人材育成をしても辞めてしまう」の3項目が40%を超える。労働者側からの課題には正社員・非正社員ともに「仕事の忙しさによる時間的余裕がない」が高く、非正社員では「家事・育児の忙しさによる時間的余裕がない」と時間に余裕がないことがあげられる。また、「費用がかかりすぎる」「必要な自己啓発の内容が把握できていない」「自己啓発の結果が社内で評価されない」といった項目もあがる。
 学びやすい環境と、学んだことを活かせる環境の両方を社会全体で醸成していく必要がある。
 大阪大学では、社会人を対象にしたリスキリングの取り組みに長らく取り組んでいる。例えば、理工系のナノサイエンス分野では、社会人が受講しやすい月曜日から金曜日までの夜間講義、土曜日に集中講義・実習などを実施するカリキュラムを10年以上続け、これまでに200社ほどから参加があり修了生もすでに1500名いる。4

島津製作所と大阪大学によるリスキリング・リカレント教育の新展開

 新型コロナのパンデミックを経て、既存の事業と異なる軸をもつ「両利きの経営」の必要性がいわれるようになった。大阪大学の田中理事は、リスキリング・リカレント教育を受けた人材の効能をこう語る。「激しく変化する社会では、大きな企業であっても既存の事業だけでは成り立たないので、次の軸が必要になる。次にシフトする時には、新たな技術、新たなビジネスの現場に関係するものを理解した新事業を牽引できる人材が必要になる。外からのリクルートや、別の企業を買収する手段もある。でも元々の軸になる事業から上手に繋げるには、元からいる人が担えるとよい。例えば既存の専門性とは別の専門分野で、大学院レベルの最先端の知見を身に着けた人材がいれば、新規事業を牽引することもできるでしょう。多様な人材がいることで、変化に脅かされない強靭な組織になる。我々大阪大学に求められているのは、将来新機軸を打ち出し、その指導者になる人たちを生むためのリスキリング・リカレント教育だと考えている。これを目指したい」と力強い。
 すでに大阪大学は、島津製作所と学内に設けられた協働研究所をベースにした「REACHラボプロジェクト」に2021年から取り組んでいる。 (詳細はこちらをご覧ください
 「島津製作所さんは、他では真似のできない非常に高度な分析機器を作っていらっしゃる。今、社員の方が薬学研究科に進まれて、協働研究所で『核酸医薬品の分析』に取り組んでいる。医薬品の安全性を上げるためには極微量でも不純物が入っていてはダメなので、分析が不可欠なんですよね。でも生命は、物理や化学分野とは異なる世界。生命に特化した分析が必要。従来の強みをもつ事業領域と別の分野に社員を送りこんで、新しいビジネスの開拓に繋げようとされているわけです」。さらに「その人たちは20代・30代で、あと10年20年したら、新ブランチを作る時の目利き役として、将来の経営者になる方向も考えておられる。我々が考える高度人材育成と方向性は同じです」。

博士進学者に安定した修学環境を

 2023年4月21日、大阪大学と島津製作所は記者会見を開き、新たに協定を締結したことを発表した(協定締結は同年3月20日)。協働研究所による産学共創をベースに、上述の「REACHラボプロジェクト」を発展させたさらなる新たな展開にも取り組む。これは、島津製作所の社員がテーマをもって大阪大学の博士課程で学ぶ点は同じだ。異なるのは島津製作所に就職する修士課程を終えたばかりの学生が、期間を空けることなく博士課程に進み社員として研究を続ける点にある。
 この取り組みは、日本が抱える高度人材育成の課題解決にも資するもので画期的だ。
日本は世界の主要国と比べ、博士号取得者が減少傾向にある5。博士人材が企業に就職後の発明生産性は高いなどの実績はあるものの、博士人材活用は進まず、複数の省庁で長年さまざまな対策が講じられている6。また、2000年には16.7%だった修士課程修了者の進学率自体も2021年には9.7%と減少傾向にあり、経済的理由やキャリアパスなどの懸念から博士課程への進学を断念する人材も多い7
 今回の特徴は、在学中および博士課程修了後の経済的な安定を担保し、博士課程進学者に生活面・心理面でも安定的な修学環境を提供できる点にある。
 これが実現できる理由について田中理事は「修士課程を終えた学生が島津製作所に就職をして、社員として大学に残る。通常、卒業・修了してしまうと、大学に残ることはできないけれど、幸い大阪大学には産学連携で島津製作所さんとの協働研究所が学内にハードウェアとしてある。就職後も大学に残って研究を続けることができるわけです」。
 さらに「国からも奨学金として、博士課程学生への経済的支援を受ける制度はある。今回の学生は、社員ですから奨学金ではなく給料がもらえる。福利厚生費等が含まれるので、より充実した経済支援になる。奨学金だと研究で成果をあげたとしても待遇に変更はない。でも給料の場合は、自分の頑張りが待遇を良くすることにつながる可能性がある。今回のように、企業にも博士課程進学者にもメリットのある仕組みは、国のお金を使わずして博士課程進学者に支援ができる。別の人の支援に回すことにつながる。とてもありがたいことです。この取り組みは、協働研究所が学内にある大阪大学だからできるもの。企業にも、学生にも、大学にもプラスの影響がある新しいものです」。

人生100年時代の学びのパスポート

 大阪大学は、阪大生がそれぞれの人生を歩む上で、リスキリング・リカレントにいつでも取り組めるよう、また学修者本位の大学教育の実現のために「人生100年時代の学びのパスポート」ともいうべきシステム構築に動き出している。「Student Life-Cycle Support(SLiCS)」と呼ばれる仕組みで、学生一人ひとりの学修などの情報をビッグデータとして活用・分析し、卒業後リスキリング・リカレントを考えるタイミングで個別最適な学修支援へとフィードバックすることを想定している。システムの詳細はここでは省略するが、田中理事は「学びは自分を助けてくれます。阪大生が生涯にわたってずっと学び続けられるような形にしたい」と目的を話す。
 日本の高等教育の課題は、学修者本位の大学教育への転換や、ICT、ビッグデータ、AIを活用する教育DXの推進、そして大学教育の成果の可視化だといわれている。SLiCSはその解決につながるものだという。「SLiCSの実現によって、阪大の卒業生が、将来『私はこういうバックグラウンドを持ってるんです』と証明できる。さらには、自分自身で考えたキャリアパスを新たに作ったり、今回のパンデミックのように、世の中が大きく変わり、『自分自身に付加価値をつけたい』と思ったときに、どういう分野を伸ばせばいいかを考える助けになる。大学が卒業後も彼ら彼女らの人生がよりよくなるようサポートすることができる」と教育者の親心ものぞかせる。

大阪大学のリスキリング・リカレントは新価値を生む

 大阪大学が目指すリスキリング・リカレント教育は、最先端の技術や知見を身に着けるだけにとどまらない。田中理事は「経営者と現場で実働される層との間の『ミドル層』に特に来てほしい」と期待を口にする。「いま経営者の方々にも、本当はリスキリング・リカレントの機会を持っていただきたい。でも忙しくて時間的な余裕がないでしょう。だから、近い将来に経営を担う層を送り込んでもらって、リスキリング・リカレントの効能を体感してもらいたい。新たに専門性を身に着けたミドル層の方々は、企業に戻ったあと活躍されるでしょう。何よりリカレントやリスキリングがどれだけ意味を持つか実感していただいているはず。そうなると、このミドル層が何か事業を任されたときに、現場にいるリスキリングやリカレントの実務経験者の新たなスキルを会社の経営に結びつけたり、次に必要なリスキリングの分野の提案をできるかもしれない」。
 さらに、博士人材の増加がもたらす日本社会への好影響にも言及する。「博士人材が増えることで、多様性が生まれます。それは、質の多様性です。属性による多様性に、質の多様性もプラスして育まれれば、それはイノベーションの源泉となります。大阪大学が目指すリスキリング・リカレントは、博士人材の活用を組織文化として醸成することにつながり、それは新たな価値を生み出すことにつながります。今からリスキリング・リカレントで中間層を養えると強靭な組織になるはず」。

人に投資し、変化に備え、革新に繋げる。

リスキリング・リカレントは、そのひとつの答えになる。

  1. 出典:内閣府「平成30年度年次経済財政報告 第2-2-12図 学び直しの国際比較 」 ↩︎
  2. 出典:内閣府「平成30年度年次経済財政報告 第2章 人生100年時代の人材と働き方 第2節 」 ↩︎
  3. 出典:厚生労働省「令和3年度・能力開発基本調査」図82・図83 ↩︎
  4. 参考:大阪大学エマージングサイエンスデザインR3センター ↩︎
  5. 出典:文部科学省科学技術・学術政策研究所,科学技術指標2020(2020) [図表3-4-4] 主要国の博士号取得者数の推移 ↩︎
  6. 出典:内閣府 科学技術イノベーション推進事務局「博士人材のキャリア(趣旨・概要)」 ↩︎
  7. 出典:文部科学省「修士課程(6年制学科を含む)在籍者を起点とした追跡調査(令和3年度修了・卒業予定者)」 ↩︎