個人のアイデンティティから、社会的つながりに至るまで。「言語」が持つ大きな影響力とは。

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島国という地理的背景もあり、諸外国と比べると民族・国籍の多様性が低いとされている日本。日本の外国出身者割合は約3%で、オーストラリア約29%、カナダ約23%、アメリカ約14%という数字と比べると、割合の低さがよくわかる1。しかしそんな日本でも、少子高齢化による人手不足などを背景に、在留外国人の人数は近年著しく増加。2024年6月時点で約358万人と、過去最高を記録している2。コロナ収束後のインバウンド需要も相まって、街中で外国語ばかりが耳に入る、という状況に出くわしたことのある人も多いだろう。

外国出身者が増えていくということは、私たちを取り巻く言語が多様に広がっていくということ。そういった変化は、私たち個人や日本社会全体に、どのような影響を与えていくのか。スワヒリ語学・文学・文化論と社会言語学を専門とする大阪大学の竹村景子理事・副学長を訪ね、言語が果たす役割や、言語によって生まれ得る社会の分断とつながりについて幅広くお話をうかがった。

大阪大学 竹村 景子 理事・副学長

言語に含まれている、政治・経済・歴史の意図。

 言語とは、なにか。そう問われれば“他者と意思疎通をとるためのコミュニケーションツール”と答える人がほとんどだろう。それも間違いではないが、コミュニケーションの手段であることは、言語が持つ多面的な役割のひとつにすぎない。

 竹村理事が言語の多面性に気づき、社会言語学に興味を抱くようになったのは、大阪外国語大学外国語学部でスワヒリ語を学んでいた大学3年生の夏休み。初めてアフリカを訪れた時だったという。「ナイロビのホテルを訪問した時のこと。こちらはスワヒリ語で話しかけているのに、ホテルマンが頑なに英語で返答してくる、という体験をしました。その時は“なんやねん”と思っただけだったのですが、のちにこの現象がなぜ起こるんだろうと気になって。アフリカは列強諸国の植民地だった歴史を持つため、現地の言葉に加えて、英語やフランス語といった第二、第三言語を話せる人も多くいます。そのため、私が遭遇したスワヒリ語と英語という異なるコードで意思疎通がとれてしまうシーンをはじめ、話の途中で同じ人物が使う言語を変える“コードスイッチング”や、ひとつの文章の中でいくつかの言語が混ざる“コードミキシング” といった、コードの混在/選択が発生するシーンが珍しくありません。そんなアフリカ社会の言語の状況を知ったことで、社会言語学的にもスワヒリ語やアフリカ諸国を見つめていくようになりました」。

 相手の国籍や立場を推量し、話し手がそれに合わせた言語を選択する“コードスイッチング”。この現象は、言語が単なる意思伝達手段、表現の道具ではないことの表れだと言える。植民地時代、アフリカを支配していたのは主に英語・フランス語圏の国々。支配者層が用いる言語が当然優位とされ、アフリカの人々にとって第一言語であったはずのスワヒリ語などが、長らく一段地位の低い言語として扱われる状況が続いた。時代が流れた後も、言語に根付いてしまった序列感は簡単には変わらない。英語・フランス語で話すことが高等教育を受けた人材、優秀な人材である証となっているため、現在もかしこまった場やビジネスの現場では英語・フランス語で話すことが好ましいとされている。このように言語は歴史や政策の力で大きく役割の変貌を遂げることがあり、その影響は言語を使う人の行動にも及ぶ。

 「自分の能力や立場を優位に見せるために英語・フランス語を使う場面もあれば、純粋に相手に敬意を払うため英語・フランス語以外の言語を使うということも」と竹村理事。経済的、政治的理由以外に、“リスペクト”がコードスイッチングの要因となっていると言う。「たとえば辺境の地に赴いて、村の長老と喋るとします。できるだけ現地の言葉で喋ろう!という意思が働きますよね。我々は実はみんな、自身の中にあるリスペクトの気持ちに基づいて、柔軟な言語選択、言語実践を行っているんです」。このように言語は単に意図や意思を伝えるだけでなく、相手との関係性を定義し、人と人との間柄をあたためるような役割も担っているのだ。

実は日本語の中にも存在している、
「言葉に優劣をつける」という感覚。

 ほとんどの国民が日本語を話す日本人にとって、アフリカでの言語選択の話は一見自分達に関係のないようにも思えるだろう。しかし方言にスポットを当てると、日本社会の中に確かに存在する“言葉の優劣感覚”が見えてくる。竹村理事が一例として挙げてくれたのが、明治時代から太平洋戦争後にかけて、主に沖縄の教育現場で使用されていた“方言札”について。方言札とは、学校で方言を話してしまった子どもに、罰として首にかけることを強要された札のこと。「標準語」として認識された話し方のみが日本人に相応しい言語であり、方言は劣っている。そんな言語政策が、日本でも広く取られていたことがよく分かる事例だ。

 もちろん現代に方言札は存在しないし、地域性による言葉の優劣が公に語られることもなくなった。しかし方言より標準語のような話体の方が優れている、という感覚は今でも日本人の中に確かに残っている、と竹村理事は語る。「実は日本には、法的に定められた標準語というものが存在しません。しかし多くの人がNHKのニュースで話される言葉や、東京を中心とした関東圏で話される言葉を便宜上標準語として捉えています。私たち日本人が、アフリカのような多言語でのコードスイッチングに出くわす場面はあまりありません。しかし、方言という意味では多くの人が恣意的に言語選択を行う体験をしているんです」。

 地方から上京した若者が、自身の訛りを恥ずかしがって標準語のような話体で話す。高齢者が方言を使って受け答えをしているインタビュー動画に、「みんながわかると思われている話し方」のテロップがつく。ほとんどの人がイメージできるこれらの身近な現象は、実は方言に対するコード選択が行われた結果だ。方言で喋るより標準語で話す方が良いと判断したり、この言語では伝わらないだろうと推量して標準語の字幕を選択したり。このように、我々は方言と標準語の間に無意識的に優劣をつけ、恣意的に言語を選択していると言えるのだ。

 「おもしろいのが関西弁」と竹村理事は続ける。「もちろん全員ではないですが、大阪弁を始めとした関西弁話者は日本のどの地域に行っても、方言で喋り続けることが多いんです。これは自身が生まれ育った地域の方言をわざわざ言い換える必要はない、と思っているからなんでしょうね。エセ関西弁を嫌がるのもこういった自信からきているんじゃないでしょうか」。単なるコミュニケーションツールを超えて、相手へのリスペクトを示す手段として使われる言語には、こういった事例から分かるように自己表現やイメージ形成のためのアウトプット手段としての側面もある。言語が政治や歴史などといった社会的背景、そして個人の想いと複雑に結びついた結果として発される、使用されるものなのだと分かってきた。

日本と母国。ふたつの国を“仲介する”という思想。

 言語が持つ多岐にわたる影響力について理解した上で、日本社会の未来や言語学習の未来についても視野を広げてみよう。2019年に特定技能制度3が創設されたことなどを背景に、在留外国人の人数は増え続けている。「移民政策は行わない」と述べながらも、労働力としての外国人受け入れには積極的な政府への疑問を始め、さまざまな場所で外国人の受け入れに対する議論が激しく展開されているのが現状だ。外国にルーツを持つ子どもたちの教育支援を活動の主軸にしている「阪大ふくふくセンター(大阪大学大学院人文学研究科附属複言語・複文化共存社会研究センター)」4の初代センター長も務めた竹村理事は、外国人との共生に対する日本社会のスタンス、未来の行方をどのように見ているのだろうか。

 「海外にルーツをもつ子どもたちの多くが、アイデンティティの揺らぎを感じ、悩みを抱えている状況にある」と竹村理事。子どもたちが日本にやってくる経緯は千差万別だが、往々にしてあるのが、先に両親が日本に来て生活基盤を固め、後から子どもを呼び寄せるケース。この場合、子どもは全く日本語が喋れない状態で日本の学校教育を受けることになり、授業内容が分からないばかりか、日本の教育現場の“右に倣え”的なシステムに順応できないことも多く、孤立してしまう。加えて母国からも遠く離れてしまっているため、自分が生まれた国の文化や言語に対する知識や意識も曖昧な状態になっていくのだという。

 阪大ふくふくセンターでは外国語学部や人文学研究科を中心とした阪大在学生、外国語学部もしくは大阪外国語大学の卒業生、人文学研究科外国学専攻・日本学専攻の教員らが、こういった背景を持つ子どもたちに対して、母国の言葉や文化を継承するための支援を行っている。目の前の子どもたちを“日本語が喋れない子ども”と捉えるのではなく、“複数のことばと可能性をもつ子ども”と捉え、その可能性を伸ばすような活動を展開している。

 「阪大ふくふくセンターでは、支援を行う学生や卒業生、教員たちを支援者=サポーターではなく、仲介者=メディエーターと呼んでいます。日本語や日本文化への順応だけを支援するのではなく、その子のルーツにつながる国の言語や文化と、日本という国を仲介する。そんな意識を持ったネーミングです」。日本に来たなら、日本語を喋るべきだというような“郷に入っては郷に従え”論争が激化している昨今。あえて阪大ふくふくセンターが母国の言語や文化を子どもたちが継承できるよう支えている背景には、子どもたちの可能性を奪ったりコントロールしたりしない、仲介者でありたいという思想がある。

 外国人の受け入れを国として積極的に行うのであれば、本来こういった活動は行政が行うべき取り組み。しかし、現状では阪大ふくふくセンターのような思想を持って活動する機関はまだあまりない。「外国にルーツを持つ人々に対する不条理もそうですが、支援する側に対しても“好きでやっているんでしょう”とボランティア的に捉えられるという不条理がある。子どもたちだけでなく支援する側にも、スキルを生かして取り組んでいることへの対価がきちんと支払われるような、そんな仕組みにしていかないといけない、という想いが強くあります」と竹村理事は語る。

共生に向けて育てるべきは、
多言語・多文化に対する双方向のリスペクト。

 海外にルーツを持つ子どもたちだけでなく、日本の子どもたちにベクトルを向けている点も、阪大ふくふくセンターの特徴だ。「私たちの大きな目標は、日本ルーツ、日本生まれの子どもたちに“世界の存在”を伝えていくこと。世界にはさまざまな言語や文化があって、日本で生きている自分たちとは異なる考え方とか、ものの捉え方をする人たちがいるんだよ、それは違うだけであって、優劣ではないんだよ。こういった多言語・多文化への理解が幼い頃から当たり前に根付いていれば、〇〇人ってこうだよねみたいな紋切り型の思想や、日本語が喋れないからダメだという差別意識はそもそも生まれないと思うんです」と、竹村理事は話す。

 共生に向けた糸口を、阪大ふくふくセンターから日本社会全体に広げていくにはどうすればいいのか。「一番大切なのはリスペクトの気持ち」だと、竹村理事は言う。日本人と海外にルーツを持つ人。双方の間に、お互いの言語や文化へのリスペクトが存在していれば、日本語ができないことを馬鹿にするような風潮や、日本文化を無視して自国のやり方を押し通すような行動はそもそも生まれない。

 リスペクトの姿勢は日本社会に平和的な多文化共生を広げる、という大きな未来像のみならず、第二言語を習得する、海外でビジネスをドライブさせるといった、個々人の未来を広げるポイントでもある。「AI技術の発展に伴い、“外国語を勉強する意味ってあるんでしょうか?”とよく聞かれるようになりました。確かに現地の言葉が分からない状態で海外に行っても、スマホさえあれば困らない状況になってきてはいます。でも本来、外国語を学ぶ、喋るということは、こういった“効率性”のためだけではないはずなんです。相手に敬意を払うからこそ、システムや機械を通さずに、相手に分かる言語で直接コミュニケーションをとりたいと思う。リスペクトを体現する手段であり続ける限り、言語を学ぶという行為が意味を失うことはないと思います」と、竹村理事は言語習得の未来について語ってくれた。

 また、現地の言葉で話すという行為は経済活動においても有益だ。「海外でビジネスをする場合、その地の言葉が少しでも話せるとやはり現地からの信用度、受け入れ方が変わってきますよね。その点、スワヒリ語はアフリカ連合(AU)の公用語で、話者の数は1億人以上と言われています。先ほども述べたようにアフリカのビジネス現場では、まだまだ英語が優位という状況ではありますが、スワヒリ語話者の人口がどんどん増えていることを思えば、少なくとも東アフリカ地域においては形勢が少しずつ変わっていくかもしれません。そういった意味で、多言語を学ぶことには経済的な価値もあると捉えられますよね」。

 アフリカでのコードスイッチング、日本の方言に対する言語選択。人は無意識的にであれ、言語に優劣をつけ、異なる言語を用いる人間に排他的な態度をとってしまうことがある。多文化化・多言語化が進んでいく日本社会において、豊かな共生の形を見出していくために。時に分断を生み得る言語の大きな力を理解した上で、相手へのリスペクトを失わないつながり方を模索していくことが必要なのだと、今回のインタビューを通じて強く感じることができた。

  1. 出典:OECD “International Migration Outlook 2023” および 法務省 出入国在留管理庁「令和5年末現在における在留外国人数」 ↩︎
  2. 出典:出入国在留管理庁「令和6年6月末現在における在留外国人数について」 ↩︎
  3. 出典:出入国在留管理庁「特定技能制度」 ↩︎
  4. 阪大ふくふくセンター ↩︎

interviewee: 大阪大学 竹村 景子 理事・副学長
Interview / Writing / Photo: Dialogue Staff

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